ひとり言

戦後80年

修子

※アイキャッチの写真は福山雅治さんの楽曲「クスノキ」のモデルにもなった長崎市・山王神社の被爆樹木です。
(2025年7月の長崎旅行時に撮影。)

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8月1日の広島市長の定例会見での発言をSNSで見て、「ちゃんとした人が上に立つ市でよかった。」と謎の上から目線の事を想い。。。
(普段の政治家としての手腕は全然知らずですが、、、)

戦後80年でもあるので平和宣言など個人的に振り返るために全文を残しておきます。

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参政党議員の「核武装は安上がり」発言について

8月1日広島市長記者会見

記者

 先ほどから、関連して質問が出ていますけれども、前回も少し話がありましたが、東京都選挙区で当選した参政党の候補が、選挙期間中、核武装について安上がりだと発言したり、今朝の毎日新聞の報道によりますと、参議院選で当選した125人のうち、アンケートで、日本が核武装をするべきだと答えた人が8人いて、参政党の候補議員は(そのうち)6人だったと。広島の選挙区の候補者に関しても当選はしませんでしたが、核兵器の保有については、抑止力として持った方がいいんじゃないか、持つべきではないかという発言、我々も取材をしていまして、こういう核兵器を日本が持つということを現実的な選択肢としてあり得るんじゃないかという考え方を結構持たれているようですけど、この考えについてはどういうふうに感じますか。

市長

 繰り返しになりますけども、一つ、直接触れているわけではありませんけれども、核武装は、まず、事実関係、ファクトファインディングですね。安上がりであるというのは、私自身の勉強の成果として決して安上がりではないというふうに思っています。なぜかというと、実際に1945年8月9日以降、戦争において核兵器、武力行使として使っていないわけです。そうすると、核兵器を持っている国は使わない武器を少なくとも今時点、80年間持っているでしょ。どんなものだって作ってしまうと、機能劣化といいますか、起こりますよね。そうすると、どこかで手を加えて、修繕しなきゃいかん。そうすると、その費用っていうのは、結局研究者もいる、維持するためのいろいろな機材もいる。そうすると、使いもしない、使うことすらできないものを維持するためのお金っていうのはバカ高いものになるんですね。

 だから、核兵器を持っている国で、もしお互いに抑止力うんぬんということを言わないようにして、両方が、そういう経費負担を図る、数を減らせば、それだけ負担が軽くなりますからね。そのお金をそれぞれの国家の福祉予算とかに回せるというぐらいの行動ですから、核武装にかかるお金は決して安くありません。高いはずです。それは事実だと思います。

 それはそれとして、安いからうんぬんという話は、まず全然、的外れだと思った上で、かつ、核兵器を持つということで、つまり、暴力を後ろに、背後に控えることで、相手を威嚇して、物事をコントロールしていこうというのは、一過性の脅迫行為として、何らかの効果はあるかもしれませんけれども、人間として、この地球上で、いろいろな営みを継続していく上で、一過性の脅しは、長期にわたる人間関係をうまく構成するためには機能しない。そうすると、いかに無駄なことかと。混乱を生じる可能性すらあるというふうに思うわけです。

 そういう意味では、人間は非暴力というか、知恵をちゃんと使って、暴力から逃れるようにするということが正しいんじゃないかというふうに言い続けたいし、そう言っている方、今言ったような核武装は安上がりだから、やってもいいという考え方を持っている方には、そうではないんじゃないですかということをしっかり伝えられるようにしたいと。そういう意味では、この「ヒロシマの心」を共有していただく方をうんと増やすという中で、そういった方々にも、しっかり考えを点検してもらいたいというふうに思いますね。

2025年8月6日:広島・平和記念式典

広島市長:松井一實*平和宣言

平和宣言

今から80年前、男女の区別もつかぬ遺体であふれかえっていたこの広島の街で、体中にガラスの破片が突き刺さる傷を負いながらも、自らの手により父を荼毘に付した被爆者がいました。

「死んでもいいから水を飲ませて下さい!」と声を振り絞る少女に水をあげなかったことを悔やみ、核兵器廃絶を叫び続けることが原爆犠牲者へのせめてもの償いだと自分に言い聞かせる被爆者。

原爆に遭っていることを理由に相手の親から結婚を反対され、独身のまま生涯を終えた被爆者もいました。

そして核兵器のない平和な世界を創るためには、たとえ自分の意見と反対の人がいてもまずは話をしてみることが大事であり、決してあきらめない「ネバーギブアップ」の精神を若い世代へ伝え続けた被爆者。

こうした被爆者の体験に基づく貴重な平和への思いを伝えていくことが、ますます大切になっています。

しかしながら、米国とロシアが世界の核弾頭の約9割を保有し続け、またロシアによるウクライナ侵攻や混迷を極める中東情勢を背景に、世界中で軍備増強の動きが加速しています。

各国の為政者の中では、こうした現状に強くとらわれ、「自国を守るためには、核兵器の保有もやむを得ない。」という考え方が強まりつつあります。

こうした事態は、国際社会が過去の悲惨な歴史から得た教訓を無にすると同時に、これまで築き上げてきた平和構築のための枠組みを大きく揺るがすものです。

このような国家が中心となる世界情勢にあっても、私たち市民は決してあきらめることなく、真に平和な世界の実現に向けて、核兵器廃絶への思いを市民社会の総意にしていかなければなりません。

そのために、次代を担う若い世代には、軍事費や安全保障、さらには核兵器のあり方は、自分たちの将来に非人道的な結末をもたらし得る課題であることを自覚していただきたい。

その上で、市民社会の総意を形成するための活動を先導し、市民レベルの取組の輪を広げてほしいのです。

その際心に留めておくべきことは、自分よりも他者の立場を重視する考え方を優先することが大切であり、そうすることで人類は多くの混乱や紛争を解決し、現在に至っているということです。

こうしたことを踏まえれば、国家は自国のことのみに専念して他国を無視してはならないということです。

また、市民レベルの取組の輪を広げる際には、連帯が不可欠となることから、「平和文化」の振興にもつながる文化芸術活動やスポーツを通じた交流などを活性化していくことが重要になります。

とりわけ若い世代が先導する「平和文化」の振興とは、決して難しいことではなく、例えば、平和をテーマとした絵の制作や音楽活動に参加する、あるいは被爆樹木の種や二世の苗木を育てるなど、自分たちが日々の生活の中でできることを見つけ、行動することです。

広島市は、皆さんが「平和文化」に触れることのできる場を提供し続けます。

そして、被爆者を始め先人の助け合いの精神を基に創り上げられた「平和文化」が国境を越えて広がっていけば、必ずや核抑止力に依存する為政者の政策転換を促すことになります。

世界中の為政者の皆さん。

自国のことのみに専念する安全保障政策そのものが国と国との争いを生み出すものになってはいないでしょうか。

核兵器を含む軍事力の強化を進める国こそ、核兵器に依存しないための建設的な議論をする責任があるのではないですか。

世界中の為政者の皆さん。

広島を訪れ、被爆の実相を自ら確かめてください。

平和を願う「ヒロシマの心」を理解し、対話を通じた信頼関係に基づく安全保障体制の構築に向けた議論をすぐにでも開始すべきではないですか。

日本政府には、唯一の戦争被爆国として、また恒久平和を念願する国民の代表として、国際社会の分断解消に向け主導的な役割を果たしていただきたい。

広島市は、世界最大の平和都市のネットワークへと発展し、更なる拡大を目指す平和首長会議の会長都市として、世界の8,500を超える加盟都市と連帯し、武力の対極にある「平和文化」を世界中に根付かせることで、為政者の政策転換を促していきます。

核兵器禁止条約の締約国となることは、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会を含む被爆者の願いに応え、「ヒロシマの心」を体現することにほかなりません。

また、核兵器禁止条約は、機能不全に陥りかねないNPT(核兵器不拡散条約)が国際的な核軍縮・不拡散体制の礎石として有効に機能するための後ろ盾になるはずです。

是非とも来年開催される核兵器禁止条約の第1回再検討会議にオブザーバー参加していただきたい。

また、核実験による放射線被害への地球規模での対応が課題となっている中、平均年齢が86歳を超え、心身に悪影響を及ぼす放射線により、様々な苦しみを抱える多くの被爆者の苦悩にしっかりと寄り添い、在外被爆者を含む被爆者支援策を充実することを強く求めます。

本日、被爆80周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、決意を新たに、人類の悲願である核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に、これからも力を尽くすことを誓います。

令和7年(2025年)8月6日
広島市長
松井 一實

内閣総理大臣:石破茂あいさつ

今から80年前のきょう、一発の原子爆弾がさく裂し、十数万ともいわれる貴い命が失われました。一命を取り留めた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。

 内閣総理大臣として、原子爆弾の犠牲となられた方々のみ霊に対し、ここに謹んで、哀悼の誠をささげます。そして、今なお被爆の後遺症に苦しむ方々に、心からのお見舞いを申し上げます。

 2年前の9月、広島平和記念資料館を、改装後初めて訪問しました。80年前のあの日、立ち上るきのこ雲の下で何があったのか。焦土となり灰じんに帰した街。黒焦げになった無辜(むこ)の人々。直前まで元気に暮らしておられた方が4000度の熱線により一瞬にして影となった石。犠牲者の多くは一般市民でした。人々の夢や明るい未来が瞬時に容赦なく奪われたことに言葉を失いました。

 広島、長崎にもたらされた惨禍を決して繰り返してはなりません。非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取り組みを主導することは、唯一の戦争被爆国であるわが国の使命です。

 核軍縮を巡る国際社会の分断は深まり、現下の安全保障環境は一層厳しさを増しています。しかし、だからこそ、国際的な核軍縮・不拡散体制の礎である核兵器不拡散条約(NPT)体制の下、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向け、全力で取り組んでまいります。

 来年のNPT運用検討会議に向けて、対話と協調の精神を最大限発揮するよう、各国に引き続き強く呼び掛けます。また、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国とが共に取り組むべき具体的措置を見いだすべく努力を続けます。

 「核兵器のない世界」の実現に向け歩みを進める上で土台となるのは、被爆の実相に対する正確な理解です。

 長年にわたり核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被害者団体協議会が、昨年ノーベル平和賞を受賞されたことは、極めて意義深く、改めて敬意を表します。

 今、被爆者の方々の平均年齢は86歳を超え、国民の多くは戦争を知らない世代となりました。私は、広島平和記念資料館を訪問した際、この耐え難い経験と記憶を、決して風化させることなく、世代を超えて継承しなければならないと、決意を新たにいたしました。

 政府として、世界各国の指導者や若者に対し、広島・長崎への訪問を呼び掛け、実現につなげています。資料館の年間入館者は、昨年度初めて200万人を超え、そのうち3割以上は外国からの入館者となりました。日本だけでなく、世界の人々に被爆の実相を伝えていくことも、私たちの責務です。

 「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は、施行から30年を迎えました。原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、引き続き、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。

 結びに、ここ広島において、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々のみ霊の安らかならんこと、併せて、ご遺族、被爆者の皆さまならびに参列者、広島市民の皆さまのご平安を祈念いたします。

 「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。

2025年8月9日:長崎平和祈念式典

長崎市長:鈴木史朗*平和宣言

1945年8月9日、このまちに原子爆弾が投下されました。あの日から80年を迎える今、こんな世界になってしまうと、誰が想像したでしょうか。

「武力には武力を」の争いを今すぐやめてください。対立と分断の悪循環で、各地で紛争が激化しています。このままでは、核戦争に突き進んでしまう。

そんな人類存亡の危機が、地球で暮らす私たち一人ひとりに、差し迫っているのです。

1982年、国連本部で被爆者として初めて演説した故・山口仙二さんは、当時の惨状をこう語っています。

「私の周りには目の玉が飛び出したり、木ギレやガラスがつきささった人、首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ泣き狂っている若いお母さん右にも左にも石ころのように死体がころがっていました」そして、演説の最後に、自らの傷をさらけ出しながら、世界に向けて力強く訴えました。

「私の顔や手をよく見てください。世界の人々そしてこれから生まれてくる子供たちに私たち被爆者のような核兵器による死と苦しみを例え一人たりとも許してはならないのであります」

「ノー・モア・ヒロシマ ノー・モア・ナガサキ ノー・モア・ウォー ノー・モア・ヒバクシャ」

この心の底からの叫びは、被爆者の思いの結晶そのものです。

証言の力で世界を動かしてきた、被爆者たちの揺るがぬ信念、そして、その行動が評価され、昨年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。

日本被団協が結成されたのは、1956年。心と体に深い傷を負い、差別や困窮にもがき苦しむ中、「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」という結成宣言をもって、長崎で立ち上がりました。

「人類は核兵器をなくすことができる」。

強い希望を胸に、声を上げ続けた被爆者の姿に、多くの市民が共感し、やがて長崎に「地球市民」という言葉が根付きました。

この言葉には、人種や国境などの垣根を越え、地球という大きな一つのまちの住民として、ともに平和な未来を築いていこうという思いが込められています。

この「地球市民」の視点こそ、分断された世界をつなぎ直す原動力となるのではないでしょうか。

地球市民である、世界中の皆さん。たとえ一人ひとりの力は小さくとも、それが結集すれば、未来を切り拓く大きな力になります。

被爆者は、行動でそう示してきました。はじめの一歩は、相手を知ることです。
対話や交流を重ね、互いに理解し、小さな信頼を重ねていく。これは、私たち市民社会の大きな役割です。

私たちには、世界共通の言語ともいえるスポーツや芸術を通じて、また、発達した通信手段を使って、地球規模で交流する機会が広がっています。

今、長崎で、世界約8,500都市から成る平和首長会議の総会を開いています。市民に最も身近な政府である自治体も絆を深め、連帯の輪を広げています。
地球市民として、共感と信頼を積み重ね、平和をつくる力に変えていきましょう。

地球市民の一員である、すべての国の指導者の皆さん。今年は、「戦争の惨禍を繰り返さない」という決意のもと、国連が創設されてから80年の節目でもあります。

今こそ、その礎である国連憲章の理念に立ち返り、多国間主義や法の支配を取り戻してください。

来年開催される核兵器不拡散条約再検討会議は、人類の命運を左右する正念場を迎えます。

長崎を最後の被爆地とするためには、核兵器廃絶を実現する具体的な道筋を示すことが不可欠です。

先延ばしは、もはや許されません。唯一の戦争被爆国である日本政府に訴えます。憲法の平和の理念と非核三原則を堅持し、一日も早く核兵器禁止条約へ署名・批准してください。

そのためにも、北東アジア非核兵器地帯構想などを通じて、核抑止に頼らない安全保障政策への転換に向け、リーダーシップを発揮してください。

平均年齢が86歳を超えた被爆者に、残された時間は多くありません。被爆者の援護のさらなる充実と、未だ被爆者として認められていない被爆体験者の一刻も早い救済を強く要請します。

原子爆弾で亡くなられた方々とすべての戦争犠牲者に、心から哀悼の誠を捧げます。

被爆80年にあたり、長崎の使命として、世界中で受け継ぐべき人類共通の遺産である被爆の記憶を国内外に伝え続ける決意です。

永遠に「長崎を最後の被爆地に」するために、地球市民の皆さんと手を携え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くしていくことをここに宣言します。

2025年8月9日長崎市長 鈴木史朗

内閣総理大臣:石破茂あいさつ

本日ここに、被爆80年目の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、内閣総理大臣として、犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げますとともに、今なお後遺症に苦しんでおられる方々に、心からのお見舞いを申し上げます。

今から80年前の今日、この街は、一発の原子爆弾により、一瞬にして一木一草もない焦土と化しました。

広島に投下されたものを上回る威力のプルトニウム型爆弾によって、7万ともいわれる人々の命と未来が一瞬にして奪われ、その多くは一般市民でした。

惨状の中でなんとか一命をとりとめた方々も、長く健康被害に苦しまれてきました。

80年を経た現在、核軍縮を巡る国際社会の分断が深まり、極めて厳しい安全保障環境に直面をいたしております。

しかし、いかに険しい状況にあろうとも、唯一の戦争被爆国として、非核三原則を堅持しつつ、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の取組を主導していくことこそが我が国の使命であり、一歩一歩、着実に努力を積み重ねます。

この上で基礎となるのは、国際的な核軍縮・不拡散体制の中心となる核兵器不拡散条約です。

来年のNPT運用検討会議に向けて、我が国は、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国の双方に対し、対話と協調の精神を最大限に発揮をし、一致団結して取り組むよう粘り強く呼びかけるとともに、現実的かつ実践的な取組を進めます。

被爆の実相を伝えることは、核軍縮に向けたあらゆる取組の原点として極めて重要です。

世界中の指導者や未来のリーダーに長崎・広島への訪問を呼びかけ、多くの方々が来訪されました。

昨年、長年にわたり核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞という栄誉ある賞を受賞されたことは、誠に意義深く、心より敬意を表します。

私は内閣総理大臣着任後、先の大戦において多くの命が奪われた硫黄島、沖縄のひめゆり平和祈念資料館、被爆地となった広島を訪れ、本日、ここ長崎に参りました。

80年前、この国で、この地で何が起きたのか。

戦争の実態と悲惨さ、原子爆弾の被害の過酷さを、決して風化させることなく、記憶として継承していかなければなりません。

被爆の実相の正確な理解を、世代と国を越えて、一層促進していく決意であります。

高齢化の進む被爆者の方々に対し、今後とも、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。

原爆症の認定について、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行うよう努めてまいります。

被爆体験者の方々についても、昨年12月から、幅広い一般的な疾病について被爆者と同等の医療費助成を開始をしており、引き続き着実に実施してまいります。

先ほど、80年の時空を超え二口揃ったアンジェラスの鐘が、ここ平和公園の長崎の鐘とともに、かつてと同じ音色を奏でました。

ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ。

長崎医科大学で被爆された故・永井隆博士が残された言葉であります。

長崎と広島で起きた惨禍を二度と繰り返してはなりません。

天を指す右手は原爆を示し、水平に伸ばした左手で平和を祈り、静かに閉じた瞼に犠牲者への追悼の想いが込められた、この平和祈念像の前で、今改めてお誓い申し上げます。

私たちはこれからも、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くします。

原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊安らかならんこと、併せてご遺族、被爆者の皆様並びに参列者、長崎市民の皆様方のご平安を祈念して、私の挨拶といたします。

令和7年8月9日内閣総理大臣・石破茂

2025年8月15日:全国戦没者追悼式

内閣総理大臣:石破茂 式辞

天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。

先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。

祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場にたおれた方々。広島と長崎での原爆投下、各都市への空襲並びに艦砲射撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。

今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。

いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、全力を尽くします。

先の大戦から、80年がたちました。今では戦争を知らない世代が大多数となりました。戦争の惨禍を決して繰り返さない。進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません。

同時にこの80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。

歳月がいかに流れても、悲痛な戦争の記憶と不戦に対する決然たる誓いを世代を超えて継承し、恒久平和への行動を貫いてまいります。いまだ争いが絶えない世界にあって、分断を排して寛容を鼓し、今を生きる世代とこれからの世代のために、より良い未来を切りひらきます。

結びに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。

令和7年8月15日
内閣総理大臣 石破茂

天皇陛下のおことば

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来80年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。

ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

最後に、、

両市町の平和宣言はもとより、石破総理のあいさつもよかったですね。

ちゃんと自分で考え、自分の言葉を紡いだように伝わりました。

いろいろと賛否両論のある政権ですが、昔から石破さんは言うことは言う政治家だったと思うので、そんな石破さんが戻ってきて欲しいなぁとは思っています。

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いい年をしていますが、そこまで政治に興味があるわけでなく、、、
歴史も苦手分野として生きてきたのですが、「やっぱり子供の頃にもっと勉強しておけばよかったな。」とこういう時に思います。

義務教育不要論が取り上げられた時代がありましたが、万遍なく基礎を学ぶことでやっと応用力が見につくというのは、大人になってからわかりました。

特に広島市長の定例会見の言葉は、専門家ではないながらも広島市民としても勉強をしっかりされてきたことがわかる内容でした。
それも分かりやすく、淡々と感情的にならず説明する能力もお持ちのようで。
(愛知県知事は、こういう時に感情的になるのが好みではなくて、、、)

こういうトップの下で働きたいものです。

追記*2025年10月10日:石破茂首相の「戦後80年所感」

戦後80年に寄せて石破総理が所感を発表されたので、こちらに追記。

高市総裁誕生に伴い、公明党の自公連立離脱発表と重なり、あまりニュースにもなっていないような気がしますが、、、

あまり政治的なことは書かないようにしているのですが、、、
やはり、石破さんの考え方、私は好きですよ。
(でも、総理前の勢いが総理後には無くなってしまったのが残念。。。しがらみとか大変そうだなぁ。。。とは思うけれど。。。)

はじめに

先の大戦の終結から、80年がたちました。

この80年間、わが国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者をはじめとする皆さまの尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。

私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席およびひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。

これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。

過去3度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。

国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。

第1次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。

政府および軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元首相の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。

戦後80年の節目に、国民の皆さまと共に考えたいと思います。

大日本帝国憲法の問題点

まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。

大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。

内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。

それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山真男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。

元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えた後には、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。

第1次世界大戦によって世界に大きな変動が起こる中、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。

1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。

従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。

政府の問題

しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府および議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。

政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。

しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるよりほか仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を2度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。

このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。

議会の問題

本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。

その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。

議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。

戦況が悪化し、財政が逼迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益とメンツをかけ、予算獲得を巡り激しく争いました。

加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。

五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。

メディアの問題

もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。

1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。

1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。

深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが高揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。

こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムはさらに高まりました。

日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋ごろから、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。

情報収集・分析の問題

当時、政府をはじめとするわが国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、時の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。

今日への教訓

戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。

内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。

さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、さらなる進展が求められます。

政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。

政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。

自衛隊には、わが国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。

政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。

政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術に例え、「相当の心配はありますが、この大病を癒やすには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東条英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。

政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。

国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。

使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論をあおり、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。

安倍元首相が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。

これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靱(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。

ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、時に過ちを犯すものです。

だからこそ、われわれは常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。

自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。

同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディア全てがこれを常に認識しなければならないのです。

斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。

翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。

どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は開けません。歴史に学ぶ重要性は、わが国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。

戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。

私は、国民の皆さまと共に、先の大戦のさまざまな教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、あたう限りの努力をしてまいります。

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修子
酒・食、時々、旅・舞台・着物𝓮𝓽𝓬. レジャックの外が見えるエレベーターが子供の頃の遊び場だった管理人が名古屋を中心に綴る日記ブログ。 最近は夫や友人と旅やホテルステイも楽しみつつ、完全同居型二世帯住宅に住む子なし夫婦です。
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